騎士団長殺しで免色が語った”ちょっと珍しいアイラ島のシングル・モルト”とは何なのか?
それを解き明かす前に、まずは順を追って、ウィスキーが登場する部分を切り出していく。そうすることで、免色という男のこだわりが見えてくるだろう。
”私”はそれほどウィスキーにこだわらないようだ。
台所に行ってスコッチ・ウイスキーをグラスに注ぎ、製氷機の氷をいくつか入れて飲んだ。
第1部 顕れるイデア編 181頁
スコッチ・ウィスキーの銘柄はとくに語らない。
台所に行ってウィスキーをグラスに注ぎ、氷も水も足さずにそれを一口飲んだ。そしてようやく一息ついた。それからウィスキーのグラスを手にテラスに出た。
ウィスキーのグラスを片手にデッキチェアに身を沈め、私は意識の迷路を行きつ戻りつしていた。
第1部 187頁
ウィスキーのグラスを片手に意識の迷路を彷徨うのはいい。
チョコレートがあればいつまでも彷徨っていられる。
生(き)のウィスキーを飲んだせいかもしれない。気持ちは昂ぶっていたはずなのだが、横になると眠りは間を置かずに訪れた。
第1部 188頁
ストレートのことを”生(き)”という。
僕は大学生の頃にバイトしていた定食屋で、おっさんに「芋焼酎を生(き)で」と注文され、何のことか分からず戸惑った。
おそらく、騎士団長殺しの読者にも、若くてお酒が得意でない人は、読んでて意味が分からなかったかもしれない。
そして、免色である。免色はウィスキーのことをよく知っている。
scotchhayama.hatenablog.com
「もしお持ちでしたら、ウィスキーを少しいただけますか?」と免色は言った。
「普通のスコッチ・ウィスキーでいいですか?」
「もちろん。ストレートでください。それから氷を入れない水と」
私は台所に行って戸棚からホワイト・ラベルの瓶を取り出し、ふたつのグラスに注ぎ、ミネラル・ウォーターと一緒に居間に運んだ。
我々は向かい合わせに座って何も言わず、それぞれにウィスキーをストレートで飲んだ。
第1部 225頁
そのように、免色はホワイト・ラベルを飲む。
”私”の古くからの友人の雨田政彦もウィスキーにこだわる。
雨田に会うのは久しぶりだった。彼は三時前に車を運転してやってきた。手みやげにシングル・モルト・ウィスキーの瓶を持ってきた。
第1部 334頁
シングル・モルト・ウィスキーである。先述のホワイト・ラベルはデュワーズのブレンデッド・スコッチである。ブレンデッドとシングル・モルトの違いは、混ぜ物をしているか否かである。シングル・モルトは単一の蒸留所で、ポットスチルという昔ながらの蒸留器でつくられたウィスキーである。それを雨田政彦は手みやげに持ってきた。
雨田政彦が持ってきたシングル・モルトの銘柄については後で考察する。
「ウィスキーをありがとう」と私は礼を言った。
「本当は一緒に飲みたいところだが、なにしろ運転があるものでね」と彼は言った。「そのうちに二人でゆっくり腰を据えて飲もう。久しぶりにな」
第1部 340頁
”私”と雨田政彦は、その後、ゆっくりと腰を据えてシングル・モルトを飲むことになる。
私は台所に行って、雨田政彦にもらったシングル・モルトのオンザロックをつくり、それを手に居間のソファに座って、雨田具彦のレコード・コレクションの中から、シューベルトの弦楽四重奏曲を選んでターンテーブルに載せた。
第1部 434頁
オンザロックでシングル・モルトを飲む。そして、レコードを聴く。
至福。
福音。
安く”幸せ”が手に入る方法の一つ。
小確幸。
”私”はいつも台所に行き、ウィスキーを飲む。
台所に行って冷蔵庫から氷を取りだし、いくつかをグラスに入れ、そこにウィスキーを注いだ。
私は時間をかけてスコッチ・ウィスキーを二杯飲み、クラッカーを何枚かかじり、それから歯を磨いて眠った。
第2部 遷ろうメタファー編 67頁
つまみはクラッカー。こだわりはない。
再び、免色。
「おたくにウィスキーはありますか?」
「厚かましいお願いですが、それをいただけませんか?
オンザロックで」
私はウィスキーの瓶と、氷を入れた陶器の鉢と、グラスを二つ台所から持ってきた。
第2部 137頁
そして免色は”ちょっと珍しいアイラ島のシングル・モルト”について語る。
「いや、これはもらいものです。友だちが手土産に持ってきてくれたんです。なかなかおいしいと思うけど」
どうかそんなに気を遣わないでもらいたいと私は言った。
第2部 138頁
ヒントは”プリンス・オブ・ウェールズ”
チャールズ皇太子の称号のことである。
チャールズ皇太子御用達のアイラ・モルトといえば、ラフロイグである。
「ラフロイグ」はチャールズ皇太子から品質の高さと香味の豊かさが認められ、1994年、シングルモルトウイスキーとして初の王室御用達許可証を下賜された。蒸溜所の建物の白い外壁にはダチョウの羽を3本あしらった別名“平和の楯”と呼ばれるプリンス・オブ・ウェールズの紋章が飾られている。
皇太子は自ら買い付けに蒸溜所へいらっしゃることもあり、年によってはボトルで1,000本もオーダーされる。また新製品誕生時には必ずチャールズ皇太子にご試飲いただくことが慣例となっている。
http://www.suntory.co.jp/whisky/laphroaig/distillery/
おそらく、チャールズ皇太子が自ら槌をふるって栓を打ち込んだ樽もラフロイグといえるだろう。なにしろ年によってはボトルで1,000本もオーダーするのだから。
これが、騎士団長殺しで免色が語った”ちょっと珍しいアイラ島のシングル・モルト”の正体だと、僕は考える。
さて、ウィスキー好きの免色はさらに続ける。
「
アイラ島といえば、その近くにジュラという小さな島があります。ご存知ですか?」
知らないと私は言った。
「人口も少ない、ほとんど何もない島です。人の数よりは鹿の数の方がずっと多い。ウサギや雉やあざらしもたくさんいます。そして古い
醸造所がひとつあります。その近くにとてもおいしいわき水があって、それがウィスキーをつくるのに適しているんです。ジュラの
シングル・モルトを、汲んだばかりのジュラの冷たい水で割って飲むと、それは素晴らしい味がします。まさにその島でしか味わえない味です」
とてもおいしそうだ、と私は言った。
とてもおいしそうだ。そこで造られたウィスキーを、そこを流れる水で割る。
最高の贅沢だ。いつかやってみたい。45歳の時に実現したい。あと5年後に確実に実行する。
「そこは
ジョージ・オーウェルが『1984』を執筆したことでも有名なところです。
オーウェルは文字どおり人里離れたこの島の北端で、小さな貸家に一人で籠ってその本の執筆をしていたのですが、おかげで冬のあいだに身体を壊してしまいました。原始的な設備しかない家だったんです。彼はきっとそういうスパルタンな環境を必要としていたのでしょう。私はこの島に一週間ばかり滞在していたことがあります。そして、暖炉のそばで毎晩一人で、おいしいウィスキーを飲んでいました」
村上春樹の『1Q84』の元となったジョージ・オーウェルの『1984』 。
もちろん、村上春樹は『1Q84』を執筆するにあたって、ジョージ・オーウェルのことを深く知ったのだろう。その時に記憶したことを取り出して、この物語に添えたのだろう。それは僕にとって上品なデザートを食べているように思えた。小確幸。
暖炉のそばで毎晩一人で、おいしいウィスキーを飲みたい。とても。
八時近くまで、我々はウィスキーを飲んでいた。やがてウィスキーのボトルが空になった。
第2部 145頁
そのように免色に語られたら、ウィスキーのボトルは空になってしまうのは至極当然のように思えた。
あぁ免色と一緒にシングル・モルトのボトルが空になるまで飲みたい。
そして、雨田政彦もまた素晴らしい。
金曜日の夜に雨田政彦から連絡があった。土曜日の午後にそちらに行くということだった。新鮮な魚を近くの漁港で買って持って行くから、食事の心配はしないでいい。楽しみに待っていてくれ。
第2部 168頁
楽しみだ。
「他に何か買ってきてほしいものはあるか?ついでだから何でも買っていくよ」
「とくにないと思う」と私は言った。それから思い出した。「そういえば、ウィスキーが切れているんだ。このあいだもらったものは人が来たので、飲んでしまった。銘柄はなんでもかまわないから、一本買ってきてもらえないかな?」
「おれはシーヴァスが好きだけど。それでいいかな?」
「それでいい」と私は言った。雨田は昔から酒や食べ物にうるさい男だった。私にはあまりそういう趣味はない。ただそこにあるものを食べ、ただそこにある酒を飲む。
雨田政彦はシーヴァス・リーガルが好きらしい。
ここでようやく、雨田政彦が”私”に手みやげで持ってきたシングル・モルト・ウィスキーについて考察することができる。
シーヴァス・リーガルはブレンデッド・スコッチである。ブレンデッドは複数の蒸留所のウィスキーを混ぜ合わせる。しかし、その中でも核となるウィスキーはある。いわゆるキーモルトと呼ばれるものである。
シーヴァス・リーガルの場合は、ストラスアイラである。スコッチウィスキーのメッカともいえるスペイサイド地方にある最古の蒸留所。
酒にうるさい雨田政彦であれば、自分の好きなシーヴァスのキーモルトを手みやげに持ってきてもおかしくない。僕はそう推察する。
雨田は紙袋からシーヴァス・リーガルの瓶を取り出し、封を切って蓋を開けた。私はグラスを二つ持ってきて、冷蔵庫から氷を出した。瓶からウィスキーを注ぐときに、とても気持ちの良い音がした。親しい人が心を開くときのような音だ。そして我々は二人でウィスキーを飲みながら食事の支度をした。
第2部 171頁
封を切ってすぐのウィスキーを注ぐ音はとても気持ち良い。
とくとくとく。
まさに親しい人が心を開くときのような音だ。
ウィスキーを飲みながら食事の支度をする。ここにも小確幸がある。
雨田はソファの上で布団にくるまって深く眠っていた。目を覚ます気配はまったく見えない。そばのテーブルの上には、ほとんど空になったシーヴァス・リーガルの瓶が置かれていた。
第2部 185頁
それから近くの酒屋に寄ってウィスキーを買い求めた。どの銘柄にしようか少し迷ったが、結局シーヴァス・リーガルを買った。ほかのスコッチ・ウィスキーよりも少し値段は高かったが、雨田政彦が今度うちに遊びに来たとき、それが置いてあればきっと喜ぶだろう。
第2部 223頁
友人の喜ぶ顔が見たくて彼の好きなウィスキーを購入する。ここにも小確幸がある。お互いに幸せな気持ちになるだろう。
ゆっくり風呂に入り、身体を温めた。それから瓶に残っていたシーヴァス・リーガルの最後の一杯ぶんをグラスに注ぎ、冷凍庫の角氷を二つ入れ、居間に行った。そしてウィスキーを飲みながら、さきほど買ってきたレコードをターンテーブルに載せた。
第2部 224頁
最後の一杯を飲みながら好きなレコードを聴く。ここにも小確幸がある。ウィスキーはいつでも何とでも幸せをもたらせてくれる。
「薪の火というのはいいものです」と免色は言った。
私は彼にウィスキーを勧めようかと思ったが、思い直してやめた。今夜はたぶん素面でいた方がよさそうだ。これからまた車を運転することだってあるかもしれない。我々は暖炉の前に座って、揺れ動く生きた炎を眺めながら音楽を聴いた。
第2部 253頁
暖炉の火を眺めながら飲むウィスキーも小確幸であるが、”私”と免色にとって大きな事件が発生している状況ではやむを得ない。
それ以降、ウィスキーの描写はない。
それから安売りの酒屋に寄って、サッポロ缶ビール二十四本入りのケースを買った。
第2部 424頁
サッポロビールもおいしい。