内村鑑三「代表的日本人」
新渡戸稲造「武士道」、岡倉天心「茶の本」と並ぶ、日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作。
内村鑑三が、奔流のように押し寄せる西欧文化の中で、どのような日本人として生きるべきかを模索した書。
代表的日本人として、
西郷隆盛(新日本の創設者)
上杉鷹山(封建領主)
二宮尊徳(農民聖者)
中江藤樹(村の先生)
日蓮上人(仏僧)
の5人を挙げている。
このなかで一番マイナーなのは中江藤樹かもしれない。
村の先生、中江藤樹。
「日本でどのような学校教育を授けられていたのか?」
西洋の文明人のなか、そう問われた内村鑑三は、次のように答える。
「私どもは、学校教育を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。私どもは、それを真の人、君子と称した。英語でいうジェントルマンに近い」
その理想的な君子として書かれるのが中江藤樹である。
藤樹は11歳の時に早くも孔子の「大学」によって、将来の全生涯を決める大志を立てた。
「大学」の次の一節を読み、藤樹は天に感謝する。
“天子から庶民にいたるまで、人の第一の目的とすべきは生活を正すことにある“
その大志を抱き続け、藤樹は母との貧しいながらも幸福な時を過ごす。
住んでいる村で学校を開き、一生を終わる日まで、平穏無事の楽しい日々を続けた。
藤樹の外見の貧しさと簡素さとは、その内面の豊かさ、多様さと比較すると、あまりにも不均衡である。
藤樹の内には、自分を絶対君主とする一大王国があった。
藤樹の外面の穏やかさは、内面的充足の自然の反映だった。
藤樹は、人為の「法(ノモス)」と外在的な「真理(道、ロゴス)」を明確に分けていた。
“法は、時により変わる。しかし道は、永遠の始めから生じたものである。人間の出現する前に、宇宙は道をもっていた。人が消滅し、天地がたとえ無に帰した後でも、それは残りつづける。しかし法は、時代の必要にかなうように作られたものである。時と所が変わり、聖人の法も世に合わなくなると、道のもとをそこなう”
いまもなお藤樹の道は語り継がれている。