空海ファンの兼松佳宏さんが推している本「大宇宙に生きる<空海>」を読んでみた。
兼松さんの思いが溢れる対談を読めばその魅力が分かるかもしれない。
この本は「仏教を生きる」シリーズ全12巻の7巻で、次の5章からなる編成である。
第1章<空と海>
第2章<光と陰>
第3章<死と生>
第4章<除と厄>
第5章<聖と俗>
松長有慶(高野山大学教授)
ひろさちや(宗教思想研究家)
今から約20年前の1999年に書かれたものである。
以下は自分用のメモ。引用。たぶん、読む時期によって、それまでの自分の学びの状況によって引っかかるところが変わると思うので、現時点(43歳)で、どのレベルになっているかの確認になると思う。
引っかかったところはスマホで写真を撮ってたので、そのページの引っかかってる部分を書き起こして、振り返ってみる。
第5章<聖と俗> 2. 教育思想 169−170頁より
密教の教えの根底には、人間に対する絶対的な信頼があります。
凡夫が苦しい行や人生経験を積み重ねることによって次第に立派な人間になるという道程も、仏教では教えます。
だが密教では、人間は本来的に仏のように完全な人格と比類のないそれぞれの特性を備えていると説きます。
ところが、われわれは日常生活の中で、それに気づかず、他を非難したり、争いあったり、あるいは自分の欠点ばかりに気をとられて悩んだりすることが少なくありません。
弘法大師にとって教育とは、本来、仏であることに気づかず迷っている人間を目ざめさせ、自己の本来の姿を見つけ出させることにあります。
この考えは兼松さんの「beの肩書き」に引き継がれている気がする。
TEDxKobe2019にも登壇。
僕も「beの肩書き」ワークショップをたくさんやってきている理由は、「自分のやりたいこと」と「組織(会社など)でやるべきこと」の間で悩んでいる人がとても多いと感じているからだ。
空海の教えを要約するとつぎの三点になる
1.人間、すべての生物、無生物は、互いに無限のネットワークで結びついている。
2.この世に存在するものはすべてなんらかのかけがえのない価値をもっている。
3.ものごとの本当の姿は、自分の体を動かすことによって捉えることができる。
1と2については僕が学んできたCTIのコーアクティブ・コーチング®の4つの礎の一つ、「人はもともと創造力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である」(英語で言うと"People are Naturally Creative, Resourceful and Whole")に通ずる。
しかも、空海は(密教では)、人だけでなく、すべての生物、無生物まで広げて考えている点がすごい。
3の「ものごとの本当の姿は、自分の体を動かすことによって捉えることができる」については、僕がフルマラソンやトレイルラン、ウルトラマラソンにチャレンジしている理由に通ずる。
100kmなど長い距離を走ると、自分の身体がよく分かってくる。自然と自分との関係性も分かってくる。何を食べたらどうなるのか?雨に打たれ続けたらどうなるのか?身体が理解していく。
究極的には冒険家も同じような気持ちで冒険しているのではないだろうか?
TEDxSapporo2019でご一緒した北極冒険家の荻田さんの話や本を読むと、僕はまだその境地に至っていないけど、なんとなく分かる気がする。
人生、いろいろな悩みを抱えている。悩んで苦しんで動けなくなる。鬱になる。そんな時期も僕にはあった。走れなくなったこともあった。けど、ゆっくり寝て、ちょっとずつ動いてみて、しっかり身体で感じて確かめて、できることを増やしていく。
そうすることで世界が広がっていくのではないだろうか。
巻末の鼎談でもヒントになる部分があり、抜粋してみる。
鼎談「空海の真言密教」3 価値の中立ということ 215頁のひろさちや氏の言葉より(読みやすいように改行や文末を少し修正している)
私は此岸(注. 科学が支配的な現実の世界)の価値観を一応「有用価値」と名付けたのです。役に立つという価値観です。
それに対して彼岸(注. 仏教が説く時間と空間を超越した宇宙的心理)の価値観を「存在価値」と名付けました。存在そのものが全部価値があるんだということです。
存在しているもの<諸法>が実相なんですね。
「諸法実相」
この世に存在しているものは、あらゆるものにレーゾンデートル(注. あるものの存在を正当化する根拠。存在にとっての理性的根拠。存在理由。)があるんだよというのが存在価値です。
この二つ(此岸と彼岸)は完全に違う価値観だと思います。あくまでも此岸の価値観に立脚する限りは、やっぱり有用価値ですよ。
ただそこに在るだけで価値がある。
ただそこにいるだけで価値がある。
そう思えるかどうかで、人は生きがいを見つけられるのではないだろうか。
「あるがまま、それでいいんだ」
文末の237頁のひろさちや氏が語ったニジマスの例えが、すっと入った。
生物学者に教わったのですが、
ニジマスは川の真ん中にいるやつが餌がいっぱい流れてくるのをパクパク食べられる。
澱みにいるのは、滅多に流れてこない餌をパクッと食べるぐらいで、あんまり餌は食べられない。
しかし、川の真ん中にいるニジマスは、川の流れに流されないようにするために、ものすごく体力を使っている。
でも、澱みにいるほうは、のんびりしている。
ところが、私たち現代日本人が教わってきた論理は、「真面目に働きなさい、もっと勤勉になりなさい」という。
でも、それこそまだ発展しつつある国々が川の真ん中に出てこようとしたら、今度はたちまち餌が不足するんじゃないですか。
そして、先進諸国の人間はエネルギーをじゃかすか使っています。澱みにいるやつを「怠けてはいけません」なんて学校で教えているほうがおかしいんじゃないですか(笑)。
澱みにいる者に、「おまえたちのおかげで、私たちは生きられるんだ」と感謝しなければいけない。
これも僕が鬱で会社を休んでいた時に思ったことに通ずる。僕が会社にいなくても会社は問題なく回る。怠けていても社会は回る。
でも、会社に復帰して、徐々に働けるようになると、自分の得意なことを発揮して、会社の利益、社会の貢献ができるようになる。僕がいることでほんの少しでも社会がより良くなっているのではないかと思えてくる。
休みたいときは休めばいい。無理をしなくていい。ただ、いろんなものに感謝をしていればいい。そうしているうちにいろんなものからエネルギーをもらって、それを糧に、社会と繋がり、宇宙とも繋がっていくことができるんじゃないだろうか。