学びと食、ときどきランニング

ウイスキーマエストロによるIdeas worth spreading

荻田さんの「考える脚」を読んで考えたこと

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TEDxSapporo2019で出会った荻田泰永さんは冒険家。主に北極圏で活動している。

最初に札幌市内のビアパブでお話したときはTEDxSapporoのスタッフと間違えてしまうほど普通の人だった。ビアパブで極地冒険の話を聞いても、あまりにも僕らの日常とかけ離れており、良く理解できなかった。

 

しかし、この本を読んで、少しだけ、荻田さんの境地に入った気がする。

 

この本「考える脚」との出会いは荻田さんのFacebookの投稿だった。

「第9回梅棹忠夫山と探検文学賞」に拙書「考える脚」を選んでいただき、受賞が決定しました。
私でいいんでしょうか、という感想ですが、素直に嬉しいです。ありがとうございます。

梅棹忠夫 山と探検文学賞

の選評

『考える脚』には、北極点無補給単独徒歩(2014年)、カナダ〜グリーンランド単独行(2016年)、南極点無補給単独徒歩(2017年〜18年)の三篇が収められています。それぞれが1冊の作品になるほどの、冒険探検界の偉業です。本書を手にするまで、消化不良のままの、平板な冒険譚になっていないかとの危惧がありました。見事に裏切られました。本書は、20年間の極北での活動と体験に裏打ちされた確信を基底に、自然とは何か、自分とは何かを問いつづけた冒険者が到達した「思索」の集大成なのです。ソリを使った単独行、深く自然の中を旅しているときに感じる「自由」、努力でなく憧れの力が旅の原動力となる、危険とは、困難とは……、冒険を介した思索の深まりが、リアルな言葉で語られています。著者は犬ゾリを使わず、小型のソリを一人で曳いて、ローカルな支援者と密接につながり、可能な限り経費を切り詰めています。あの不世出の冒険家植村直己氏が追い求めたであろう冒険スタイルを創り上げ、新たな地平を切り開いたと言ってよいでしょう。明瞭で無駄のない文体、構成力も申し分なく、第9回梅棹賞に決定しました。  

自然とは何か?

自分とは何か?

それは僕も日々問い続けていることかもしれない。

荻田さんほどではないにしろ、ウルトラマラソンやトレイルラン、フルマラソンを走り続けている。走りながら自然とは何か?自分とは何か?を問うのが好きだ。答えはすぐに見つからなくてもいい。問い続けることが大事なのだ。

 

受賞にあたり荻田さんがnoteに書いてある。

note.com

この本の構成について

最初の北極点は、とにかく過酷な極地遠征の実態だ。効率の最大化を図り、薄氷を踏みながら死の危険を感じつつ、ひたすら前進することに特化した遠征の全て。そして、撤退を決めるまでの心の動きを記録したかった。

次のカナダ〜グリーンランド単独行は、一転して北極圏の文化や野生動物、イヌイットとの交流など、土地の話を書こうと思った。

最後の南極点は、資金集めや装備開発などを中心に、準備や社会との接点に関して書き進めた。

 

以降は実際に本書を読み進めながら共感した部分を抜粋しつつ、なぜ共感したのかを考えてみる。

第一章 北極点無補給単独徒歩の挑戦

43ページ「自由について」

通信機器を一切持たずに北極の旅に出たことがある。村から村へのひと月以上、外部と完全に連絡を遮断し、自分が今どこにいるのかを誰も知らない。生きているのか死んでいるのかも、誰にも知られない。そんな状況に身を置き、深く自然の中を旅している時に心から自由だと感じた。社会と繋がっていないことで感じる自由とは、自分がミスを犯せば自分が死に、全ては自分の責任である、そういうことだ。

(中略)

自由を獲得するには、どれだけ自らの行為に責任を負うことができるか、そして自分の人生は誰のものでもなく自分のものである、と信じられるかどうかだけだ。

どれだけ自らの行為に責任を負うことができるか?

自然の中に身を置き、社会と分断された日常を過ごす。再び社会と繋がる時に、自分とは何か?自分が社会に与えられる役割とは何か?を考え直すきっかけになるんじゃないだろうか?

満員電車に揺られ、会社の指揮命令系統に属し、家族を経済的に支え、徐々にすり減っていく。そういう社会人は多い。すり減ったものを取り戻すために自然に還っていく時間も必要なんだろう。そう荻田さんに問いかけられた気がした。

 

66ページ「食事について」

「俺は今、世界で一番美味いカレーを食ってるな」

そう確信できるほど、美味いのだ。おそらく、同じものを普段の食卓に並べられたら相手にキレるレベルの味であるはずだが、空腹は最高の調味料、とはよく言ったものだ。

冒険中は、自分が持っている食料が何よりも美味しく感じてくる。目の前にはないが、世の中にはもっと美味しい食べ物がたくさんあることは知っている。ただ、不思議とここにないものは欲しいと思わない。ないものに目を向けるのではなく、目の前にあるものの大事さがよく分かってくる。

僕もウルトラマラソンやトレイルランをやっている時に食べるおにぎりが最高に美味いと思う。渇望しているのだ。身体が欲しているのだ。

札幌市内のビアパブで一緒に飲んでいるとき、荻田さんに「北極では何を食べているのですか?」と聞いたら、「脂ですね」と答えてくれた。本書にも書いてあるが、北極点を無補給で徒歩で行くためには自分が引けるソリに全てのものを入れておかなければならず、もっともエネルギーコストの良い脂が重宝するそうだ。ランニングではエネルギー変換効率の良い炭水化物が重宝されるが、より長い距離を何日もかけて歩いて行くためには脂が良いのだろう。その時々で身体が欲するものを食べると本当に美味しいと思える。食べ物は不思議だ。

 

ないものに目を向けるのではなく、目の前にあるものを大事にする。

この考え方は、現代の物に溢れた生活をしている身にとっては、ときどきは思い返したほうが良いのかもしれない。無い物ねだりをせず、他人を羨ましく思わず、今あるもの、自分が持っているものを大事にする。無理をしないで生きること。

 

82ページ「情熱と冷静の狭間」

厳しい北極の環境、立ちはだかる大乱氷帯、押し流される海氷、次第に計画が狂ってくる。

北極海の上で一人、自分に残された物資と時間を最大限使って、どうやって北極点まで行くかだけを考えていると、思考回路は「どうやって行くか?」に終始する。それだけを毎日繰り返していると、やがて「果たして現状で北極点まで行けるのか?」という、いわゆる冷静で客観的な判断をする以前にその思考にすらならないのだ。「行けるかどうか?」ではなく「どうやって行くか?」だけを考え始める。

(中略)

人間が本来立ち入る場所ではない北極海を一人で歩くには、身を焦がすくらいの情熱を持って臨む必要がある。しかし、その情熱たる「感情」が、客観的に冷静に判断しようとする自分の足を引っ張るのだ。人は感情に流されると冷静さを見失うものであるが、そのような状態が、もっと心の奥深くの根深いところで発生していく。

荻田さんのレベルではないにせよ、フルマラソンではいつもこのような状態になる。10kmごとのラップタイムを気にしつつ「どうやって走るか?」を考えているうちはよいが、20km、30kmを過ぎて足に余裕がなくなり、タイムがどんどん落ちてくると「ちゃんとゴールできるのか?もしかしたらリタイアした方がいいんじゃないか?」と負の感情が沸き起こる。自分の準備不足なだけなのに。人の感情とは面白い。

 

94ページ「冒険家・河野兵市の死」

凍って間もないリフローズンリード(一度割れた海氷が再凍結した箇所)を歩きながら、荻田さんは冒険家・河野兵市さんを思い出す。2001年、北極点を単独徒歩でスタート、カナダ、アラスカ、ベーリング海峡、ロシアを経由して故郷・愛媛まで帰ってくるリーチングホームという旅を計画した人物らしい。北極点を出発した河野さんは、カナダ上陸手前の北極海上で亡くなってしまった。河野さんはこのリフローズンリードに落ちて死亡したのではと荻田さんは予想する。

冒険とは自らの主体性によって行うものである。忠告はあくまでも他人の意見として、自分の行動を決める上での参考にすることはあっても、従うべきだとは言えない。

周りからの期待がプレッシャーとなり、自分が本調子ではない中、無理をして事故にあった。荻田さんはそう予想する。自戒を込めて。いま自分は無理をしているのではないだろうか?そう問いかけ、諦めることも時には必要なのだろう。

 

101ページ「道具について」

このリフローズンリードをいかに攻略するか?荻田さんは折り畳み式のカヤックを携えトライしていた。道具に対する荻田さんの思いが伝わる。

道具とは、それまで人間ができなかったことをできるように、力を補完させるためのものだ。これだけ海氷の流動性が高い現在の北極海にあって、たった一人で、自力で北極海に赴き、自力で帰ってくるという行為を、道具によって達成させることができたとしたら、それこそが本来あるべき道具の精神の結晶ではないだろうか。

僕は究極のモビリティは歩くこと・走ることだと思っている。車や飛行機といったあまりにも速い移動は人間が本来持っているものを損なっているのでは、と思うことが多い。人が判別できるくらいの速度で自然を感じ、思考するというプロセスも大事な気がする。そうしないと新しいものが生まれてこない気もする。

 

131ページ「決断」

あと17日ほどで北極点に到着するという所で、荻田さんは決断をする。

俺は、このまま北極点に着いた時、嬉しいだろうか?

今まで考えたことのない疑問だった。これまで食料制限をして時間をつくり出し、カヤックを捨てても前進することを選んできたが、心の片隅に「何かが違う」という違和感があった。自分が置かれた現状は、望んでいた状態に近付いているのだろうか。望んでいた状態とは、なんだろうか。それは、ただ北極点に辿り着くということではない。北極点に、事前の想定内で辿り着くということだ。どこに着くか、が問題ではないのだ。どう着くのか、それこそが問題だ。どう着くのか、これを言い換えるとどう向かっているのかだ。着くことが重要ではなく、向かうことこそが目的だ。着くとは結果の話、向かうとは過程の話だ。正しい過程を歩むことで、結果は自ずとついてくる。

これを読みながら、書き起こしながら、人生について考えた。

人生もそうなんじゃないか。

死ぬときが結果で、大事なのは生きる過程なのではないだろうか?

死ぬときに、これまでの人生を振り返って、良い人生だったと思えることなんじゃないだろうか?

偉くなりたい!とか、金を稼ぎたい!とかじゃなく、どれだけ自分の人生に向きあえたか、が大事なんじゃないのか?

そう思えた。結果はあとからついてくる。

 

 

137ページ「勇気について」

多くの人は、最後は勇気を持って退いてください、と私に言う。ただ、私は「退く勇気」というのは、我々のように現場の人間は言ってはいけない言葉だと思っている。退くのに勇気は要らない。退く時に必要なのは、客観的な妥協だ。妥協できずに客観性を失った奴から死んでいく世界である。

勇気が必要なのは、前進する時だ。困難とは、自分の内にある。困難を乗り越える時にこそ、勇気が必要なのだ。

退く勇気と客観的な妥協

勇気が必要なのは前進する時

自分の内にある困難を乗り越える時にこそ、勇気が必要

とても深い洞察。じんわり響く。

 

第一章の北極点無補給単独徒歩の挑戦は、極限の状態の中、どのように決断して前進するのか、終始ドキドキしながら読み進めた。

その様子はTEDxSapporo2014でも語られている。

youtu.be

 

 

第二章 カナダ〜グリーンランド単独行

166ページ「なぜ冒険するのか?」

未知とは、誰にとっての未知なのか?

自然は人間の尺度からは呆れるほど長い時間をかけて変化しながら、常にそこにある。生活の場としていたイヌイットであろうが、伝説的な探検家たちであろうが、我々であろうが、そこにある北極の自然の前では各々の人生を賭けるか一時的に通り過ぎるかの違いがあるだけの訪問者に過ぎない。未知とは所詮、訪問者それぞれの未知でしかない。

他の誰かにとっては既知の事実でも、自分にとって未知であれば大いに価値を感じることができる。

人間一人ひとりのそんな営みの連続の中から、やがて人類としての未知を明らかにする機会が生まれ、それが人間の可能性を押し拡げてきたのではないだろうか。

一人ひとりの世界を拡げる方法はいくらでもある。

簡単なのは本を読むことである。本は、それが数百年前に書かれたものであろうと、翻訳されればどこの地域の人であろうと、著者の考えを理解することができる。時空を超えて繋がれるツールである。

これまで知らなかったことを知り、実際に体験しようと思い、行動する。そのように僕の世界も広がってきた。荻田さんに会うだけでなく、荻田さんの書いた本を読むことで、極地での生き方を知り、世界が拡がった。実際に極地に行って体験したら、さらに世界は広がるのだろう。

 

我々のような冒険者は「なぜ冒険するのか」という問いに対して「やりたいからやるんだ」としか答えられない。それは、行為の後に対自分自身であろうと対社会であろうと、いずれかの意味を見出されることを固く信じているからこそ、今この瞬間に刹那的な意味を求めないのだ。

心が動く、だから冒険する。それでいい。

やる前に四の五の言うな、やってみれば分かるから。

それをエゴと呼ぶか矜持と呼ぶかは紙一重の差でしかない。 

まずやってみる。それが大事。とは他の本にもよく書いてある。

実際にやってみる人はほんの一握りかもしれないけど、やってみたほうが世界は広がると思う。小さな一歩を踏み出してみよう。

 

 

178ページ「未知への喜び」

ふと、今自分にとって新しい北極の見知らぬ世界に侵入していることを感じた。それがとても嬉しかった。自分の手によって世界が広がる実感こそ、ここにやってくる理由の一つだ。

知らない土地、知らない人、知らない風景に会うこと、それが僕にとっても楽しい。知らない土地に行くこと、そこで会った知らない人と話すこと、いつもと違う道を歩きいつもと違う風景に会う。自分の行動によって世界が広がる。それが楽しい。生きる醍醐味だ。

 

この章では北極の自然との触れ合いだけでなく、イヌイットとの交流や過去の冒険家の歴史についても描かれており、荻田さんが本当に北極という土地が好きなんだなぁと思いながら読み進めた。

 

氷点下30度の環境でスノーモービルをかっ飛ばしていながら、ジーンズだけで問題のないホッキョクグマのパンツの威力は素晴らしい。我々のような訪問者が持っているこの土地に対する印象と、定住する彼らの印象は別物だ。ここは彼らの生活圏。まるで、東京で近くのコンビニに行こうとしたら雨が降っていたのでレインコートをジーンズの上から穿くような感覚で、ちょっとカリブーを狩りに行くからホッキョクグマのパンツを穿くようなものだ。

世間の常識について考えさせられる。世間とは何をさすのか?どこの誰の世間なのか?郷に入っては郷に従えとはよく言ったもんだ。

 

ホッキョクグマのパンツという道具に対する考察も。

これまで何度もホッキョクグマの毛皮のパンツを見てきたが、やはりこれは凄いものだ。完全に風を防ぎながら、体から出る汗の水蒸気は発散させてくれる。防水機能もありながら、とても温かい。それを一着で成立させている。最先端の技術でつくられたアウトドアウェアよりも、遥かに凄い。まだ人間の技術では、同じ機能を達成できる素材はつくれないだろう。

人間は進歩発展してきたが、まだまだ自然には敵わない。そう思えた。自然を畏怖し、尊敬し、謙虚に学ぶ姿勢がこれからも必要だろう。

 

支配の歴史について、土地の名前から想起する。

ケンブリッジベイというザ・英国風の名前の村はイヌイット語で「イカルクトゥティアク」と呼ばれ、その意味は「魚が豊富な土地」である。私もケンブリッジベイを何度も訪れたことがあるが、村の周囲の湖ではたくさんの魚が捕れ、イヌイットたちは昔から魚を重要な食料源として生きてきた。

土地の名前は、彼らの生活に直結している。しかし今では欧米の探検家たちが名付けた地名が「正式名」となっている。大航海時代以降、列強諸国は世界の支配地域を広げ、土地や資源を収奪する役割に探検家が一役買ってきた時代がある。

侵略者による支配とは、土地の名前を奪い、言語を奪い、宗教を奪い、資源を奪い、食べ物を支配して進んで行くものだ。

グローバル化が進み、経済的な価値観が支配し、効率性を追求していく現代社会では、多くの独自言語や文化が急速に失われつつある。文化を守り、次の世代に引き継いでいく努力は、個人レベルでもやっていったほうがよいのかもしれない。

 

鯨やイルカに対する感情と同じく、北極でも人間同士の感情の対立が生まれている。

かつて、カナダ東岸のセントローレンス湾で、タテゴトアザラシの狩猟に対して世界中から非難が集まった。流氷の上で生まれた真っ白いぬいぐるみのような可愛いアザラシの子供を、現地のカナダ人漁師たちが氷上で棍棒を手に撲殺して回るという狩猟の動画だ。ショッキングな映像に触発されて、世界中の著名人が「アザラシ毛皮不買運動」を展開した結果、全く関係ないグリーンランドイヌイットたちのアザラシ猟による毛皮の価格も下がり、現金収入が激減した。収入にならなければアザラシ狩りに出るイヌイットも少なくなり、これまで伝統的に使われてきた狩猟のルートや知恵が伝承されなくなる。こうやって一つの文化が消えていく。

数が減っているホッキョクグマや、可愛らしいアザラシを獲るのはかわいそう、残酷だ、というような、全体も一部もまるで見ない、ただの感情論で発する意見はどこかで誰かを苦しめている。

何を大事にするのか?というのは結局人間のエゴである。アザラシが可愛いければアザラシを守り、猫が可愛ければ猫を守る。人間(自分)にとってどうでもいいもの、例えばゴキブリなど忌み嫌われるものには関心が向かない。同じ地球上にいる生き物なのに。それもまた人間。永遠に分かり合えないかもしれない。

 

238ページ「憧れの力」

カナダ〜グリーンランド単独行もいよいよゴール。シオラパルクの村で40年以上前から定住している大島育雄さんが荻田さんを出迎える。

「そう言えば、初トレースですね、おめでとう」

「カナダからここまで歩きで全部やった人は誰もいなかったから、初ですよ」

と大島さんは言う。

「そうなんですか、誰かしら歩いている人はいるかと思ってたんですが、初でしたか」

今回の旅をやった甲斐があったなと、おまけのような嬉しさを荻田さんは感じていた。

そして旅を振り返る。

48日間の旅は、私に新しい北極の姿を見せてくれた。昔の探検家たちの息吹を感じた気もした。野生動物たちと同じ地平に立ち、同じ世界を生きたことに感動した。存分に北極の旅を堪能させてくれた。

旅とは努力で行うものではない、憧れの力で前進していくのだ。まだ見ぬ世界への憧れ、広い世界に触れた見知らぬ自分自身への憧れだ。

歩くことは、憧れることだ。

そこに行かなければ出合うことのできないものに出合うために、私は歩いていくのだ。

荻田さんが冒険をする理由がなんとなく分かった気がする。

世界を拡げる。自分の世界が広がる。自分自身で世界を拡げる。未知の世界に憧れ、未来の自分に憧れながら。その手段が、荻田さんにとっては、歩くことだったのだ。

 

 第二章のカナダ〜グリーンランド単独行では、世界の拡げ方について深く考えさせられた。

 

第三章 南極点無補給単独徒歩

南極点は北極点に比べて簡単な冒険らしい。

日本人初の偉業ということで、帰国後、記者会見が開かれた。

「今回の冒険を通して一番厳しかったことは何ですか?」

「いやぁ、特に厳しくなかったですよ。あえて言うなら、風景も変わらないので、退屈だったことですかね」

荻田さんはそう、インタビューに答えていた。

揺れ動く海氷、立ち塞がる乱氷やリード、ホッキョクグマの襲来、極寒の環境など北極点の徒歩冒険は南極点に比べて30倍くらい難しいらしい。

ソリを引いて歩く日々は単調だ。南極では特に、である。北極海では常に周囲に意識を払っている。海氷の薄い場所を見て、ホッキョクグマの接近に気を配り、氷が動いている音をなるべく早く察知しようと聞き耳を立てている。しかし、南極ではクレバスへの意識を払っているが、それは見れば分かることなので音の情報は問題にならない。今回の南極点では、50日間のソリ引き中は常に音楽プレイヤーのウォークマンを使用して、歩いている間に気を紛らわせていた。

荻田さんにとって夏の南極は、音楽を聴きながらちょっと散歩に行ってくる、くらいの感覚らしい。

 

264ページ「日常」

旅とは、日常と非日常の逆転にその本領があると私は思っている。

多くの人は、自分の生活している世界から遠く離れたところへ旅行することに「非日常性」を求めていく。しかし、旅に出た価値が生まれるのは、行った先が日常となり、本来自分がいた場所が非日常に感じられる瞬間だ。その時、自分が知っていた世界、当たり前だと思っていた日常を別の見方で捉える視点を持つ。日常と非日常ではなく「たくさんの日常」を行き来できる人は、豊かな視点を持つことができるだろう。極地への旅は、私にとって日本とは違う日常を営ませてくれる体験だと言えるのだ。

僕はまだ旅行で「日常と非日常の逆転」を感じたことがないかもしれない。いつも暮らしている土地での日常と比べてしまう。荻田さんのように長く旅をしていると、そう思えるようになるのかもしれない。だけど、何となく分かる。何となく分かる理由は本を読んでいるときにそう思う瞬間があるからだ。フィクションであれノンフィクションであれ本の中の世界に引き込まれている時は、そちらの世界が日常になり、本を読むのをやめて、休憩している時が非日常に思える時がある。荻田さんの冒険譚を読んでいても、極地にいることが日常に思える時がちょくちょくあった。

 

北極点や南極点を目指す冒険はものすごくお金がかかるらしい。

飛行機をチャーターしないと行けない場所からスタートし、ゴール後も飛行機に迎えに来てもらわなければならないからだ。

荻田さんは企業にスポンサーになってもらうために奔走した。その中で様々な人と出会い、社会と繋がっていった。

 

276ページ「仲間について」

仲間は必要だ、でもあえて仲間を望んだことはない。

お互いの間に、物理的に目に見える形での利益交換は何ら発生しないのだが、一緒に走ってくれるのだ。仲間が増えると、自分一人ではできなかったことができるようになっていく。一人では、いつまで経っても一人分の動きしかできないのだが、二人だと二人分以上の動きができるようになった。

私は最終的に仲間が誰も現れず、たった一人でもやる気があるし、またやれる自信もある。だが、他人に依存する訳ではなく、お互いの力を補完し合って自立した立場で助け合える仲間というのは、本当の力になる存在だ。

僕も基本的に一人でいることが好きだし、一人でなんでもやれる自信もある。けれども会社に所属し、TEDxKyotoのようなボランティア団体にも関わり、色々な仲間と共に大きなことをやるのも楽しい。そこには苦しさもあるのだけれど、一人でやる気軽さもいいけれど、やっぱり仲間と一緒に何かを成し遂げると、達成感がすごく大きい。喜びを分かち合えるのもいい。

 

284ページ「スポンサー集め」

ここにも荻田さんの矜持がみられる。

一人で自由に好き勝手をやる分には、勝手に死ねばいい。

ただ、人からお金を集めた瞬間に、自分の責任において死ぬことを全力で回避する義務があると思っている。もし私が死ねば、応援してくれた多くの人たちを裏切ることになる。企業としては、死んだ冒険家の応援をしたというのは、企業イメージ向上の真逆に作用しかねない。だからこそ、私は必要な資金は全て自分の足で集める。人に代行してもらうつもりはない。誰が、どんな思いで、どんな性質のお金を出してくれるのかを理解しておく必要があると思っている。それが自分の身を守ることに繋がり、私を応援してくれる仲間たちや支援者を守ることになるのだ。

第一章の北極点で回想した「冒険家・河野兵市の死」に繋がると思った。人からお金を集め、それをプレッシャーに感じ、無理をして河野さんは亡くなってしまった。自分はそうならないよう、万全の準備をして冒険をする。荻田さんの信念を感じた。

 

企業をレストラン、シェフが広報、食材を自分として例えたスポンサー集めの秘訣が面白い。

私がやってきたことは、自分がどんな育ち方をしてきた椎茸であるか、それだけを正直に伝えてきただけだ。腕の悪いシェフは、目の前に置かれた食材を見ても調理方法が分からず、仕入業者の八百屋さんに「この椎茸、どうやって調理したらうちのメニューに合うのかな?」と聞く。かつて、アポなし飛び込みをしていた時に「あなたを支援したらうちにどんなメリットがあるんですか?」と私に聞いてくるようなものだ。食材に聞くんじゃない、それを扱いきれないシェフの腕が悪いんだろう、ということだ。

私は腕の悪いシェフと一緒に仕事をしても、面白いものはつくり上げられないだろうと思っている。だからこそ、私は自分からはプレゼンテーションをしない。私がプレゼンテーションを行なって、その説得に乗って協力してくるということは、調理方法を自分で考えられないシェフであるという証明だ。私が調理法を伝えたところで意味をなさないだろうし、私がプレゼンテーションをしなければ私の使い方を思いつかないような人とは、発展的な付き合いができないだろうという思いがあるからだ。

素材の良さを引き出すには、まずは味わってみることが大事だろう。そのうえで、シェフは何ができるのか、どんな料理にするのかを考える。

僕はウイスキーのことを愛している。ウイスキーの良さを最大限に引き出してやろうと工夫する。このウイスキーには刺身が合うだろう。このウイスキーはストレートで飲んでチョコレートと合わせればいいんじゃないか。そうすれば目の前の人は美味しく楽しんでくれるのではないか。食材(人)に向き合うことから始めよう。

 

288ページ「南極用に開発した装備」

荻田さんは道具にこだわっている。今回はソリとウェアを独自に開発した。

ソリの開発エピソードはTEDxSapporo2019でも語られた。

www.ted.com

「私の極地用のソリって、つくれないですか?」

すると、植松さんは即答した。

「どんなものが必要か分からないですが、何か面白そうですね」

フィールドは違えど、同じチャレンジャーとして意気投合した瞬間である。

これが自然と広がる仲間なのだろう。

 

307ページ「新しい旅の始まり」

出発から40日目。あと10日ほどで南極点に到達する。その中で荻田さんは新たな目標を立てた。

そうだ、次は単なる自分の挑戦ではなく、かつての自分のようにエネルギーの向け場に悩む若者たちを連れて、北極を歩こう。そう思った。これをやるべきなのは自分であり、やりたいと思っているのも自分で、そして実現できるのもまた自分しかいないだろう。

荻田さんとは違う目標ではあるけれど、同じように僕も若者に対してやりたいことがある。それはウイスキーの素晴らしさを伝えることだ。僕は大学時代に、行きつけのバーのマスターからウイスキーを教えてもらい、ウイスキーの魅力を知った。同じように20歳になりたての若者にウイスキーの魅力を伝える。ささいなことで世界が広がる。辛いこともウイスキーを飲んでいるときは忘れられるかもしれない。人生の節目に飲むウイスキー。それぞれの人の生きる道すがらに、彩りを与えてくれる存在になるかもしれない。これをやるべきなのは自分であり、やりたいと思っているのも自分で、そして実現できるのもまた自分しかいないだろう。

 

310ページ「目的について」

目的とはどこかに辿り着くことではなく、正しいと信じる過程の中に自分の意思で身を置いていることである。

目的とは、過程の中にあるものだ。

その過程を全力で行きさえすれば、結果は自ずとついてくる。そして、俺はどこまででもブースト全開で走っていけるのだと知っている。

荻田さんにとっての極地冒険、僕にとってのウイスキーのように、やりたいこと、できること、やるべきことが見つかれば、どこまででもブースト全開で走っていける。これから出会う若者たちに伝えていきたい。