夏休みの自由研究として「村上春樹とウィスキー」に取り組むことにした。
私がウィスキーにハマるきっかけとなった旅行記「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」だけでなく、小説にも数々のウィスキーが登場する。
登場シーンを書き留めておこうと思い立った。
第1回は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」
村上春樹の長編の中で私が一番好きなものだ。
1985年に刊行され、1988年には文庫版が発売された。
私が初めて読んだのは1999年である。
それ以来、何度も読み返しているし、英語の勉強のために英語版も買った。
内容は「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」の物語が交互に展開される。
ウィスキーは「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界にのみ登場する。
ピンクのスーツを着た肉付きのよい17歳の女の子とその祖父である博士から面倒な依頼を受け、疲れて帰ってきた主人公(私)はウィスキーを飲む。
(上巻 116頁)
私は冷蔵庫から氷をとりだし、大きなグラスに大量のウィスキー・オン・ザ・ロックを作り、少しだけソーダを加えた。
そして服を脱いでベッドに潜りこみ、ベッドの背もたれにもたれてちびちびとそれを飲んだ。
疲れた時はオン・ザ・ロックがいい。ソーダを足したら濃い目のハイボールじゃないかと思うけど、そんな雑な作り方でもいいのだ。自分の気分に合わせて好きなように飲めるのがウィスキーの良いところなのだ。
ベッドの背もたれにもたれてちびちび飲むことでその日に起こった面倒な出来事をきれいさっぱり忘れることができるだろう。
次にウィスキーが登場するのは、博士に持たされた「一角獣の頭骨」について調べていた時だ。図書館のリファレンス係の女の子に手伝ってもらい、図書館から借りてきた「図説・哺乳類」を読んでいたが一角獣の哺乳類についての手がかりは見つからなかった。
(上巻 138頁)
私は仕方なく、冷蔵庫から氷をだしてオールド・クロウのオン・ザ・ロックを飲んだ。
もう日も暮れかけていたし、ウィスキーを飲んでもよさそうな気がした。
それから缶詰のアスパラガスを食べた。私は白いアスパラガスが大好きなのだ。アスパラガスを全部食べてしまうと、カキのくんせいを食パンにはさんで食べた。
そして二杯めのウィスキーを飲んだ。
主人公が飲んでいるのはオールド・クロウだった。
カラスがラベルにデザインされているバーボンである。創業者のジェイムズ・クロウに由来しているらしい。
缶詰メシとバーボン・ロックは合いそうだ。今度やってみよう。
引き続き一角獣の頭骨について調べるが、なんとも行き詰っているので再び図書館のリファレンス係の女の子に頼みごとをした。今度は一角獣についてすべて調べて、関連する本を持ってきてほしいという厚かましい頼みごとだった。
主人公は彼女を待つ間に夕食を作った。
梅干しドレッシングのサラダ、鰯と油揚げと山芋のフライ、セロリと牛肉の煮物、みょうがのおひたし、いんげんのごま和え。
リファレンスの女の子はそれらを片端からたいらげていった。
(上巻 153頁)
私は大きなグラスにオールド・クロウのオン・ザ・ロックを作り、厚あげを強火でさっと焼いておろししょうがをかけ、それをさかなにウィスキーを飲んだ。
彼女は何も言わずに黙々と食べていた。
その厚あげも彼女は食べた。御飯と梅干しとみそ汁も食べた。
ビールと一緒にフランクフルト・ソーセージを両手いっぱいフライパンで炒めたものも食べた。できあいのポテト・サラダにわかめとツナをまぜたものも二本めのビールとともにペロリと食べた。
(上巻 155頁)
私はほとんど何も食べずに、オールド・クロウのオン・ザ・ロックを三杯飲んでいた。彼女の食べる姿に見とれていて、まるで食欲なんてわかなかったのだ。
個人的にはこのシーンが好きだった。自分が作った料理をおいしそうに食べる人を眺めながら飲むウィスキーは格別だろう。
この後、ウィスキーが登場するのはしばらくかかる。
ピンクのスーツを着た太めの娘から助けを求められ、車で迎えに行く。
待ち合わせのスーパーマーケットで様々なポスターを眺めて時間をつぶした。
酒売り場には数多くのポスターが貼られていた。
(上巻 220頁)
私にわかったことは、あらゆる酒の中ではウィスキーのオン・ザ・ロックが視覚的にいちばん美しいということだった。
簡単に言えば、写真うつりが良いのだ。
底の広い大柄なグラスにかき氷を三つか四つ放り込み、そこに琥珀色のとろりとしたウィスキーを注ぐ。すると氷のとけた白い水がウィスキーの琥珀色に混じる前に一瞬すらりと泳ぐのだ。
とても詩的な美しい文章だ。村上春樹はオン・ザ・ロックがとても好きなんだなぁと分かる。こんど私もバーでオン・ザ・ロックを頼んで水がウィスキーの間をすらりと泳ぐ様を眺めたいと思った。
次にウィスキーが登場するのは「破壊」のシーンだ。
敵対する組織からやってきた二人組。大きい方が徹底的に主人公の部屋を破壊する。
その中には長年買いためていたウィスキーも含まれていた。
(上巻 258頁)
男はまずワイルド・ターキーを二本叩き割り、次にカティ・サークに移り、I・W・ハーパーを三本始末し、ジャック・ダニエルズを二本砕き、フォアローゼズを葬り、ヘイグを粉みじんにし、最後にシーヴァス・リーガルを半ダースまとめて抹殺した。
カティ・サークは帆船が描かれたブレンデッド・スコッチ。
I・W・ハーパーはトウモロコシの比率が高いバーボン
ジャック・ダニエルズはチャコール・メローイング手法で有名なテネシーウィスキー。
フォア・ローゼズは4つのバラが描かれたバーボン。
ヘイグはブレンデッド・スコッチ。今はあまり日本に流通していないが1980年代は人気だったよう。
最後のシーヴァス・リーガルはブレンデッド・スコッチ。最近はミズナラ樽フィニッシュも人気。
まだ輸入物のウィスキーが高かった1980年代にこれだけのストックを持つというのは相当なウィスキー好きである。前述のオールド・クロウは飲み切ったのだろう。
また、この頃はシングルモルト・スコッチは出回ってなかったので登場していない。ブレンデッド・スコッチもしくはバーボン(アメリカン)が輸入ウィスキーとしては主流だったのだろう。
破壊しつくされた部屋で本を読む主人公。本を読みながらウィスキーを飲みたい。
(上巻 275頁)
私はキッチンに行って流しの中にうずたかく積みあげられたウィスキーの瓶の破片を注意深くどかしてみた。
ほとんどの酒瓶は粉々に割れてガラスの破片がとび散っていたが、シーヴァス・リーガルの一本だけがうまい具合に下半分無傷で残り、ウィスキーがグラスに一杯ぶんくらい底にたまっていた。
私はそれをグラスに注ぎ、電灯の光にすかしてみたが、ガラスの破片は見当たらなかった。
グラスを持ってベッドに戻り、生あたたかいウィスキーをストレートで飲みながら本のつづきを読んだ。
(上巻 276頁)
私は「ルージン」を読んでしまうと、その文庫本を本棚の上に放り投げ、流しの中で更なるウィスキーの残骸を求めた。
底の方にジャック・ダニエルズのブラック・ラベルがほんの少し残っているのをみつけてそれをグラスに注ぎ、ベッドに戻って今度はスタンダールの「赤と黒」にとりかかった。
スタンダールの「赤と黒」を読みながら、壁に囲まれた世界を連想した。
(上巻 277頁)
私は本を閉じて残り少ないジャック・ダニエルズを喉の奥に送りこみながら、壁に囲まれた世界のことをしばらく考えた。
ここで「世界の終わり」に繋がる。
ウィスキーを飲みながら本を読むと、想像力が豊かになる感じがする。とても気持ちがよい時を過ごせる。
本を読み、眠りについたが二時間後にピンクのスーツを着た太った娘に叩き起こされる。博士を救うために再び地下へ行くことに。「やみくろ」たちが蠢く地下道を進むため、しっかりと装備を整える。
(上巻 323頁)
私は駐車場から車を出し、途中で深夜営業のスーパーマーケットをみつけて缶ビール二本とウィスキーのポケット瓶を買った。そして車を停めてビールを二本飲み、ウィスキーを四分の一ほど飲んだ。
1980年代は飲酒運転に寛容な時代だった。
物語は下巻に続く。
地下で大変な目にあいながらも、なんとか博士のいるところへたどり着く。
博士がたらしたロープを上る太った娘を見上げながらウィスキーについて考える。
(下巻 52頁)
それをじっと見ていると私はウィスキーがひとくち飲みたくなったが、ウィスキーは背中のナップザックの中だったし、不安定な姿勢のまま身をひねってナップザックを外し、ウィスキーの瓶をとりだすのはどう考えても不可能だった。
それで私はあきらめて、自分がウィスキーを飲んでいるところを頭の中に想像してみることにした。
清潔で静かなバーと、ナッツの入ったボウルと、低い音で流れるMJQの「ヴァンドーム」、そしてダブルのオン・ザ・ロックだ。
カウンターの上にグラスを置いて、しばらく手をつけずにじっとそれを眺める。
ウィスキーというのは最初はじっと眺めるべきものなのだ。
そして眺めるのに飽きたら飲むのだ。
綺麗な女の子と同じだ。
やはりこの頃の村上春樹はオン・ザ・ロックが大好きなのだろう。
MJQはモダン・ジャズ・カルテットのことで、1950年代に結成されたジャズバンドである。バーでBGMとして聴きながら、落ち着いた雰囲気で飲むのにぴったりだ。
ウィスキーは眺めるのに飽きたら飲む。
綺麗な女の子と同じらしい。
綺麗な女の子を眺めることはあっても、その後の関係に至ったことがないので分からないけど。
ここから物語はクライマックスに向かっていく。ウィスキーはしばらく登場しない。
無事に家まで帰ってきて、その後のあと片付けを済ませた主人公は図書館のリファレンス係の女の子とデートをする。
イタリア料理店に入り、二人でたっぷりと料理を食べる。
主人公も地下での冒険を終えてブラックホールのごとく空腹だった。
(下巻 274頁)
「まだ食べられる」と私は言った。
「私の家に冷凍のピツァとシーヴァス・リーガルが一本あるわ」
「悪くないな」と私は言った。
この後の女の子とのやりとりも素敵だった。
女の子とこんな風に過ごせる時間は限られている気がする。人生に一度あれば奇跡のようなものだ。
これで「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界でウィスキーが登場するシーンは終わり。
最後に、ピンクのスーツを着た太めの女の子が主人公に言ったセリフが普遍的なので紹介する。
怖がらないでね。
あなたがもし永久に失われてしまったとしても、私は死ぬまでずっとあなたのことを覚えているから。
私の心の中からはあなたは失われないのよ。
そのことだけは忘れないでね。
人はいずれ死ぬが、誰かが忘れなければずっとその人の中で生き続けるのだ。
死んでしまった人にとってはどうでもいいことかもしれないが、生きている人にとっては大事なことなのだ。
それはこれから死にゆく人にとっても少しだけ希望となるかもしれない。