村上春樹の小説に登場するウィスキーを紹介する。
第四弾は「羊をめぐる冒険」
初期三部作の三作目
僕と<鼠>と羊にまつわる物語。
最初にウィスキーの記述が登場するのは「十六歩歩くことについて」という節だった。
(上巻・25頁)
アパートの廊下をドアに向かって十六歩歩いた。
目を閉じたまま正確に十六歩、それ以上でもそれ以下でもない。
ウィスキーのおかげで頭はすりきれたネジみたいにぼんやりとして、口の中は煙草のタールの匂いでいっぱいだった。
ウィスキーの霧の中をまっすぐ十六歩歩く。
二十歳の頃に関係をもった女の子の葬式に行き、妻と別れ、新しいガールフレンドを作った。耳が美しい女の子。
彼女と最初の出会いでバーの話になる。
「バーではいつもどんなものを食べるの?」
「いろいろだけれど、まあオムレツとサンドウィッチが多いね」
(中略)
「良いバーはうまいオムレツとサンドウィッチを出すものなんだ」
これには激しく同意する。
彼女に生い立ちを聞かれ、回答の中でウィスキーが登場する。
(上巻・62頁)
「(中略)夏はビールを飲んで、冬はウィスキーを飲む」
「そして三日に二日はバーでオムレツとサンドウィッチを食べるのね?」
「うん」と僕は言った。
僕の話を聞いて彼女は「耳を開放」した。
そして「羊をめぐる冒険」が始まることを予言した。
僕は仕事の相棒に呼び出される。羊の話を聞くために。
相棒は優秀だがアル中の一歩手前だった。
(上巻・78頁)
僕が事務所に着いた時、彼は既にウィスキーを一杯飲んでいた。
一杯で止めている限り彼はまともだったが、飲んでいることに変りはなかった。
相棒からとてもやっかいな依頼を聞かされる。僕が<鼠>から受け取った羊の写真が関係していた。
(上巻・98頁)
相棒が部屋を出ていったあとで、僕は引出しから彼のウィスキーを見つけ出して一人で飲んだ。
依頼について、羊の写真について考察をはじめる。
(上巻・101頁)
僕はスカイブルーのソファーの上でウィスキーを飲み、ふわふわとしたタンポポの種子のようにエア・コンディショナーの気持ちの良い風に吹かれながら、電気時計の針を眺めていた。
心もふわふわとしてくる。考えがまとまらない。
(上巻・102頁)
僕はあきらめてウィスキーをもうひと口飲んだ。熱い感触が喉を越え、食道の壁をつたい、手際良く胃の底に下りていった。
ウィスキーをストレートで飲むとこうなる。
昔は新品だった夏の空のために、もうひと口ウィスキーを飲んだ。
悪くないスコッチ・ウィスキーだった。
そして空の方も見慣れてしまえばそれほど悪くなかった。
二杯目のウィスキーを飲み終えた時、僕は「いったい何故僕はここにいるんだろう?」という疑問に襲われた。
ウィスキーを飲んでいるとありがちな心の動きである。現実と虚構の境目が分からなくなってくる。そのときは気持ちがいいのだけれど、酔いがさめて後悔する。
僕はソファーから起きあがり、相棒の机の上にあったグラビア・ページのコピーを手に取り、ソファーの上に戻った。そしてウィスキーの味の残った氷をながめながら写真を二十秒ばかりじっと眺め、その写真が何を意味するのかを我慢強く考えてみた。
羊の数が三十二頭から三十三頭になった。
(上巻・104頁)
僕はソファーに横になったまま、再び羊の数に挑戦してみた。そしてそのまま昼下がりの二杯のウィスキー風の深い眠りに落ちた。
眠り込む前に、僕は一瞬新しいガール・フレンドの耳のことを考えた。
昼下がりにウィスキーを飲んで眠るというのはとても素敵な行為のように感じる。
いつか僕もガール・フレンドの耳のことを考えながら実行してみたい。
次にウィスキーが登場するのは「鼠からの手紙とその後日譚」で鼠からの頼みごとを果たすため、鼠の元彼女と会って話すときだった。
ホテルのラウンジがカクテル・アワーに入った。
(上巻・160頁)
「お酒でも飲みませんか?」
「ウォッカをグレープ・フルーツで割ったのはなんだったかしら」
「ソルティー・ドッグ」
鼠のことについて彼女は語る。
(下巻・162頁)
二十秒ばかりの沈黙のあとで、僕は彼女の話がもう終わっていることに気づいた。
僕はウィスキーの最後の一口を飲んでから、ポケットの中の鼠の手紙を取り出し、テーブルのまん中に置いた。
彼女はバッグに手紙をバッグにしまう。
僕は二本目の煙草に火を点け、二杯めのウィスキーを注文した。
二杯めのウィスキーというのは僕はいちばん好きだ。
一杯めのウィスキーでほっとした気分になり、
二杯めのウィスキーで頭がまともになる。
三杯めから先は味なんてしない。
ただ胃の中に流し込んでいるというだけのことだ。
うんうん。
それから「羊をめぐる冒険Ⅱ」がはじまる。
耳のきれいな彼女と北海道に行くことになる。
(下巻へつづく)
下巻は物語のクライマックスでウィスキーが登場する。
<鼠>が過ごしていた別荘にたどり着く。
耳のきれいな女の子は去る。
(下巻・140頁)
約束の一カ月はちょうど半分が過ぎ去ろうとしていた。
十月の第二週、都会がいちばん都会らしく見える季節だ。
何もなければおそらく僕は今ごろどこかのバーでオムレツでも食べながらウィスキーを飲んでいるに違いない。
良い季節の良い時刻、そして雨あがりの夕闇、かりっとしたかき割り氷とがっしりした一枚板のカウンター、穏やかな川のようにゆったりと流れる時間。
なんて素敵な時間の過ごし方だろう。僕もとびきり美味いオムレツを食べながらウィスキーを飲みたくなってきた。
やがて羊男がやってくる。
(下巻・148頁)
「酒が欲しいな」と羊男が言った。
僕は台所に行って半分ばかり残ったフォア・ローゼズの瓶をみつけ、グラスを二個と氷を持ってきた。
我々はそれぞれのオン・ザ・ロックを作り、乾杯もせずに飲んだ。
(下巻・150頁)
羊男は半分溶けた氷の上にとくとくとウィスキーを注ぎ、かきまわさずに一口飲んだ。
(下巻・152頁)
羊男は立ちあがって右の手のひらでテーブルをばんと叩いた。
ウィスキー・グラスが五センチばかり横にすべった。
僕はソファーに沈みこんだままウィスキーをなめた。
羊男とのやりとりはウィスキーによって演出された。
そして羊男は消えた。
(下巻・157頁)
しかしテーブルにはウィスキーの瓶とセブンスターの吸殻が残っていたし、向いのソファーには羊の毛が何本か付着していた。
(下巻・159頁)
それから三日が無為のうちに過ぎた。
何ひとつ起こらなかった。
羊男も姿を見せなかった。
僕は食事を作り、それを食べ、日が暮れるとウィスキーを飲んで眠った。
(下巻・162頁)
煙草はなかった。
そのかわりに僕は氷なしでウィスキーを飲んだ。
もしこんな風に一冬を過すとしたら、僕はアルコール中毒になってしまうかもしれない。もっとも家の中にはアルコール中毒になれるほどの量の酒はなかった。
ウィスキーが三本とブランデーが一本、それに缶ビールが十二ケース、それだけだ。たぶん鼠も僕と同じことを考えていたのだろう。
再び羊男の短い来訪
一人で過ごす時間
あることに気づく
(下巻・177頁)
僕は台所に行ってウィスキーの瓶とグラスを持って来て、五センチぶん飲んだ。ウィスキーを飲む以外は何も思いつけなかった。
鼠との邂逅と別れ
そしてエピローグ
(下巻・225頁)
僕はセーターを着て街に出て最初に目についたディスコティックに入り、ノン・ストップのソウル・ミュージックを聴きながらオン・ザ・ロックをダブルで三杯飲んだ。
それで少しまともになった。
異なる世界へ到達するのと戻ってくるのにウィスキーは利用されていたようだ。
精神に結びつく。